がんを生きる:つながりを求めて/5止 患者サロン、集う「仲間」
<がんを生きる>
がんの患者さんの紹介をしてくれている記事を読むことで、自分ががんだと宣告されたときの心構えをもてるような気がします。
日本中にこのようながん患者がたくさんいるんですから、この声を聞けるような専門のサイトがあるのかもしれません。
こんど探してみたいと思います。
がんを生きる:つながりを求めて/5止 患者サロン、集う「仲間」
<以下、記事の引用です>
がんを生きる:つながりを求めて/5止 患者サロン、集う「仲間」◇つらい体験、分かち合う
血色を失った顔に絶望が浮かんでいた。2月、島根県出雲市のがん患者サロン「ちょっと寄って見ません家(か)」。初めて訪れた60代の女性が泣き出した。「どうしていいか分からない」サロンを主宰する佐藤愛子さん(63)がじっと耳を傾ける。女性は膵臓(すいぞう)がん患者。主治医が告げた余命は3カ月。「治療して苦しむより、やりたいことをやった方がいい」と突き放された。
「セカンドオピニオンを聞いてみない?」。佐藤さんは女性を別の病院へ連れていった。膵臓がんは難治性のがんだが、その病院で初めて医師に自分の気持ちを十分聞いてもらい、女性は「少し安心した」と話した。今も治療を試しながら、週1回、サロンに通い続けている。「笑顔で接することが支えになる」。佐藤さんはそう思う。
佐藤さんががんとかかわるようになったのは、01年に地元テレビ局のカメラマンだった夫の均さんに大腸がんが見つかってからだ。地元の病院の治療に満足できず、ふさぎ込みがちだった均さんだったが、知人の紹介で東京の抗がん剤専門医の治療を受けると、表情が変わった。「まるで別世界だ」。同じ薬でも投与の仕方により、副作用が格段に減った。
「全国でどこでも最良の専門医療が受けられるようにしたい」。均さんは患者仲間らとともに医療の地域格差解消を目指す運動を引っ張った。それは06年のがん対策基本法の成立に結実する。だが、均さん自身は前年6月、56歳で力尽きた。
最愛の人を失ってから、佐藤さんは3カ月ほど家に引きこもったが、05年9月に突然自宅を訪れた見知らぬ男性の一言で、がんと再び向き合い始める。「均さんの活動を報道で見て、勇気をもらった」。三成一琅(みなりいちろう)と名乗った男性は、同じ島根県の膵臓がん患者だった。
三成さんは07年に62歳で亡くなるまで、均さんの後を継ぐように県や病院に治療環境の改善などを訴え続けた。佐藤さんも「かばん持ち」のように連れ出された。05年末、初の患者サロンが島根県益田市で産声を上げたときも、すぐに佐藤さんに教えてくれた。
佐藤さんは実際にサロンを訪れ、地域や職場での偏見を恐れて、がんと明かせない患者たちの話を聞いた。「患者になったらみんな一緒。支え合わないと」。夫のそんな言葉を思い出した。06年4月、空き店舗にテーブルと椅子を持ち込み、サロンを開いた。
今月5日、いつものように患者が集まった。リンパ節を取り除いた後遺症で、右手に浮腫が出た乳がん患者(60)がため息をつく。「家のいらんもんを片付けてたら、重いもの持つやろ。腫れてきて」。佐藤さんが切り返す。「うちの蔵も骨董品(こっとうひん)ばかり。私も骨董品だけど」。サロンが笑い声に包まれた。
がんを通じて知り合った仲間たち。つらい経験をした者同士だからこそ、分かち合える心がある。【前谷宏】=おわり
